板碑の種子 大和町史p159

板碑の種子 大和町史p159

 板碑の表面には、その建立の趣旨によって、また建立した者の宗派や時代によって、種子その他いろいろなものが刻されている。種子は阿彌陀・彌陀三尊・光名真言等が多い。初期のものは上部に種子を重点的に大きく刻し、その下部に余地をあけて経文の句・願文等を明確に記している。阿彌陀三尊・観音・薬師・地蔵等諸尊の図像を伴うものもあったが、余計な装飾はなかった。

 後になると板碑は次第に形式的なものとなり、種子は縮少されて単なる荘厳物と化し、それに反比例して天蓋・花瓶・香炉・燭台・前机等の装飾的なものが加わって、にぎやかにはなったが板碑の本質からは外れたものとなってしまった。

 板碑の種子に見られる仏教の宗派は、阿彌陀の浄土教関係が大半であるが、他に題目の日蓮宗など新興仏教諸派、或は大日不動をあらわした真言宗、釈迦・文殊・普賢の天台宗などがある。浄土教の中では、時宗のものが目立っている。

 仏教以外の例では神道関係のものも見受けられ、また修験道と結びついた民間信仰的色彩の強い板碑も、室町時代後期から作られた。月待・庚申待・念仏などのいろいろな供養がそれで、また六地蔵・十仏・十三仏・二十一仏信仰等に基くものも造られた。月天子・彌陀来迎図・六地蔵などの板碑は、そのためのものである。

 なお、鎌倉時代末頃から夫婦同時供養という新現象があり、そのため双式板碑というものが造られるようになったのは様式的に目新らしい。

 関東地方に板碑が多いのは何故であろうか。その理由としては、関東には秩父緑泥片岩が出土するので、板状の石を加
工.入手するのが容易であったこと、中世の関東は新興仏教各宗の布教道場であったこと等が考えられる。ことに革新諸
宗派は恰も板碑造立の濫膓期にあたり、宗勢拡張の目的のために、民意に迎合して自宗教義を無視してまでも造塔供養を
奨励した。一基でも多く板碑をたてることは、それだけ自宗の勢力を扶植する所以である。そのため板碑の乱立状態を招
き、関東に板碑が特殊な発達をとげたのである。(服部清五郎『板碑概説』による)
三多摩付近で最も多く板碑を蔵するのは、立川市普済寺の新国宝の六面石瞳を含む数十枚である。深大寺一本松の浅田
家.国分寺の本多家.小金井の梶家等にもそれぞれ数十枚収蔵されているという。また『所沢市史』によれば、所沢市内
にあって造立年月の明らかな板碑は六十四枚にのぼる。その他には東村山町徳蔵寺所在の、元弘三年銘重要文化財板碑が
特に知られているが、これについては後に述べたいと思う。

 さて、大和町の区域内にある板碑は、昭和三十六年七月の調査によれば六十二枚の存在が確認されている。その他に
『狭山之栞』に清水の三光院蔵として載せられているものが一枚、昭和三十二年八月の調査の時には存在していた芋窪の
慶性院蔵のものが二枚、計三枚が現在所在不明となっている。此等の板碑については、『大和町史研究』七号に早稲田大
学の川村喜一・杉山荘平両氏による詳細な調査報告が載せられているので、以下この報告に基いて若干の考察を行ってみ
たいと思う。(以下本文中に示した板碑の下に()で示した番号はすべて報告書に示された通番号であるから、同報告書と比較対照しながら読まれたい。)
大和町の板碑は、その年代の明らかなもの四十四枚についてみると、清水・三光院蔵の徳治三年(一三〇八)七月のも
の(通番号-)から、芋窪慶性院蔵の永正二年(一五〇五)六月二十二日のもの(53)まで、鎌倉末期から室町時代にかけ
て、約二百年間にわたりつくられたものである。中でも至徳・応永・永享の年号を持っものが最も多く、この期間(一三